今日は。亀岡市内で、「本能寺の変」と題した講演会(入場無料)が有り行って来ました。
3人のパネリストを迎えて、本能寺の発掘調査・信長と京都・丹波衆と山陰道と言う話でした。
(^^;)ん~高齢者が以外に多かったな・・・。(汗)
信長と京都では!今まで気に成らなかった話があり
「何故?江戸時代に入るまで!城と呼ばれる建物が無かったのか!」
信長は二条御所・秀吉は聚楽第!と言う屋敷型城郭しか建てられなかったのか?
さらに法華宗の寺院には、堀や壁があるが、他の寺院は無いとか?
かの有名な、洛外洛中図では本能寺の屋根部分しかない?
(信長は自分の常宿設備をワザと描かせなかったのかもね!)
丹波衆と山陰道では、
桂川に橋が有ったかも!?15世紀の資料(3点)から、
渡月橋・桂橋が架かっていたらしい。(いい事聞けた~!)
山陰道は信長の指示で、拡張工事をして軍隊が通れるほどに整備されていた
(これは自分も最近知ったのだが、細川藤孝に指示して、
信長自ら、丹波攻略の指揮する予定だったが、光秀になったと言う話ですが。)
ので現代に残る道より広かった。
山陰道(江戸時代の道)旧山陰道(江戸時代以前の道)の比較。
野々口西蔵坊と丹波衆の話などが有りました。
質問コーナーで、質問出来なかったので、閉会後チョットしつこく質問してみました。
1)山陰道・沓掛の関所について、
光秀時代には機能していなかった・・・関所跡と言われた・・・。
2)革島氏の屋敷に付いて、
公道と同じ用なので、荘園内を通過しても問題ない・・・??。
3)本城惣右衛門の「かたはらまち」固有名詞ではなく、
河原とか対岸のまちと言う感じの意味で何処にでもある名称だそうで・・・。
さらに晩年・記憶を思い出しながら書いたので思い込みや!誤記等が有るので
100%参考には成らない・・・。
時間が無かったので、
(2)明智軍に革島氏がいたら如何するねん!とか
(3)100年後の軍記物も同じじゃん!と突っ込みたかったが諦めて、
掛かっていたとされる桂の橋の位置と聞いてみたら、現在の桂大橋付近らしい。