2009年06月
先日、園部町文化資料館へ行ってきましたが
郷土の戦国時期の資料が無いかと訪ねてみたのですが、
期待ハズレでしたが、資料館に売られていた、
園部の歴史(3500円)に、野々口西蔵坊について載っていたので、
チョット高いが悩んだあげく購入・・・。
図書館では、福島氏が書かれた「光秀と西蔵坊」のレポート
を見つけコピーをお願い致しました。大きな成果?かなぁ・・・。(^^;)
野々口西蔵坊豪淵(野々口清親) 生不明~1596年没
丹波野口(ののぐち)荘の土豪。
波多野秀治の祈願師と言われ、明智光秀の丹波攻略時は、
光秀側となり波多野氏との和睦交渉に勤めた事が有名だが、
その他にも、光秀の使僧として土豪達との間を取り持っていたそうだ。
(中小企業組合の会長的存在か?)
光秀の書状に、小畠氏・中沢氏と共に木材の調達に勤めたり、
村井貞勝の書状でも四条大橋の木材調達に関わった事も記されている。
本城惣右衛門覚書によると、本能寺の変・小牧長久手の戦いにも
丹波勢の一員として指揮を取っていたようだ。
光秀没後も、その地位を維持、羽柴側の使僧として、
小畠氏ら土豪の知行目録の受け渡しに貢献していたらしい・・・。
亀岡市・楽音寺には、西蔵坊寄進の仏像や伝説を記した掛け軸などあり、
又、南丹市・最福寺には、位牌が伝わっており、権大僧都の地位で、
文禄5年6月15日に亡くなったとされている。
野々口五兵衛尉 生没不明。
豊臣時代の人物で、丹波地域の木材管理の職に従事していた。
また、高津八幡宮(綾部)や、石清水八幡宮へ寄進した記録が残る。
父親の亡くなった、爺様は、山林で(枝打ち職人の)仕事をしていて
「我が家の先祖は!この地の豪族だった・・・。」
と、興味の無い親父に、嫌と言うほど言っていたそうで・・・。
もしかしたら我が家の先祖だったかも・・。??
そして、納屋の整理をしていたら、サビた汚い槍が有ったらしく、
興味が無く、汚いから捨てたらしい・・・。
この槍は、曾婆(長女)さんが、弟・長男に、家を譲って分家した際に持って来た様だ。
家系図が、無いから、解らないが・・・。
戸籍謄本によると、江戸後期までさかのぼれたが・・・。
先祖と思いたいなぁ・・・。
kのの
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