2009年01月
鉄道趣味の次に、興味があるのが!日本史で!戦国時代です。
出生地が、明智光秀が築いた亀山城がある亀岡市で育った事と、
親の先祖が武将だった?と言う?言い伝えから来ています。
ある日、Web散策で親の里にある、室町時代中期に築いたと言われる
城跡を散策した写真を発見!それを見てから!絶対!登ってみたい!
と思い始め、蝮が出ない、この季節にチャレンジしてみました。
登頂口は、家の菩提寺で、園部にある最福寺の裏山です。
このお寺の門は、お城の移築門と言われているようですが、
南丹市総合ガイドのHPによると、
平成7年に改修工事をしたさいに、1701年(元禄14年)に再建された門だと判明!
さて、城跡への道筋をかいた記事を、参考にウロウロしてみたが、
やはり!大手口から上って見たいと!川沿い散策。
西側の小川が、外堀の役目を果たしているのか?
川を渡った、奥の森に、虎口らしき場所を発見!
入り口に、近づいてみると、大小の石が山頂に向って、ひき詰めていた。
途中、行く手を阻む柵が出現、柵の向う側には大きな巨石が。(網の隙間から撮影)
仕方ないので、こんどは柵に沿って登頂開始。
数分後、松林を伐採した、個所に辿り付き、尾根の先端に到着。
大きな石が数個転がっていた!さらに北側へ足を進めると、
Webで見た!掘割が出現。左斜面には、苔の生えた石垣が見える。
この斜面をさらに北へ進むと、櫓跡と思われる石垣群がありました。
別角度から、
他に石垣群が無いか、数分散策して見ましたが、大きな石が点在はしていましたが、
先ほどの様な、石垣群は見当たりませんでした。
この城の南側を登って行くと、半国山と言う山が有り、さらに東側の尾根には、神尾山が在り、
いざと言う時には、神尾山城に落ち延びる事も可能かも・・・。
埴生城は、神尾山城の支配城と言う事ですが、
北を正面にした二郭から成る簡単な山城で、
西側には館跡と思われる平坦地が南北に伸びており、
さらにその脇には谷川が流れており外堀の役目をしていたとか。
築城者は、野々口左衛門尉親永だそうです。
Webで系図を調べた処、
五代目・親広
六代目・義盛
(義盛は入り婿で、足利義政に仕えていて、左衛門尉に)
七代目・親永
八代目・清親(西蔵坊と呼ばれ明智光秀の家臣団に属していた。)
*八代目清親は、野々口西蔵坊の名で知られ、
明智光秀の八上城攻めで、薗部城の荒木氏と共に、
和睦の使者となり波多野兄弟を神尾山城に呼び出した事で知られており、
新説でも本能寺の変にも名が出て来ている。
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