南丹市の園部史によると、記録は無いが、明智光秀の軍と、波多野秀治の軍勢が、
八田川を挟んで、激戦と成り、川が真赤に染まったと言う伝説が載っていました。
その為、南八田周辺には、五輪塔が、多く残って居たそうです。

南八田 のコピー

チョット暇つぶしに、京都最西端、野々口西蔵坊の埴生城(本目城)から、
南八田方向を眺めて見た。
(向かって、右側の山向こうか、小畠氏の穴人で、矢印が戦闘地)
篠山街道が、一直線に見えますね。
波多野の軍勢を見張るには、良さそうな位置である。

軍記物では、西蔵坊は、波多野側の兵と書かれているが、この地形から見ても!
明智側の兵で、前線基地を任されていた、地位の人物では?無いかと思う。

br_c_1761_1