時めく蒸機の風

蒸機の撮影(N蒸機の加工)が、メインですが、 明智光秀ネタも書いてます・・・。

本能寺の変

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龍淵寺(朱印巡礼 3)

京都は桂、旧山陰街道沿いにある、龍淵寺へ行って来ました~!
龍淵寺は、浄土宗西山深草派の御寺です。

近くには、明智光秀が、本能寺の変の早朝に目撃された伝説が有る。
明智川(小畠川)の用水路が、流れています。

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戦国時代、戦に敗れた、波多野の兵士が、友人を訪ねて、落ち延びて来たそうです。
その後、地蔵堂の住職と出会い、出家し、108歳まで生きられたとか。

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天正10年頃、寺院の建立を嘆願、明智光秀より、この地を賜り秋に完成したと言う。

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地蔵堂の御地蔵様を、撮らせて頂きました。
御朱印は、四種類、有りましたが、御地蔵様を選択致しました。


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HPでは、書置きと成っていましたが、運良く書いて頂けました。

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本能寺へのルート

本能寺へのルートで、疑問に成っているのが、
丹波亀山城を発して、老の坂を越えた明智軍は、
通説では沓掛で休息し、京都へ行くか!西国へ行くか!
の分岐点と言われている・・・。

しかし、ここでは、全兵が「何故?山崎へ行かないのか?」
と疑問に成らないのだ!だって、余りにも遠すぎるから・・・。
歴史家の言い訳では、全兵に「山崎へ行く」と言っていたからと成っている。

明智方で、唯一、本能寺の変に付いて書き残した人物として、
最近注目されて来た、本城惣右衛門の覚書には、
「山崎へ行く物と思いましたのに。」だが、
「山崎へ行くと言っていたのに。」では、ないからです。
歴史家の都合の解釈で、昔の記憶だから・全兵に伝わって居なかった
など上の解釈とは合いません・・・。

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私が思うに、丹波街道(沓掛から長岡の調子八角間)と、西国街道の分岐点ではないのか?
ここなら、山崎へは、すぐ目の前です。(地図・赤のルート)
全軍間違いなし!「え!山崎へ行かないの??」となります。

片原町=川原町と言う、見解もあり、川原町とは、川岸にある宿場町を指すそうです。
西国街道の桂川西詰めには、川原町と言う地名も存在します。。。

更に、

桑田氏の「明智光秀」と言う本や、雑誌とかで、軍記物より引用したのか?
天野源右衛門を先方として、京都へ行かした事が載っています。
この時、東寺付近で、武装した兵士に驚いて逃げていく農民を見て、
本能寺へ通報するのを防ぐ為、切り捨てた話が載っています。

明智軍は!桂川から七条通りを東へ進み堀川通りを北上した事になっています!
東寺は、七条通りの南!九条通りになり南に位置し、
これが本当なら。南下してまで切り捨てる理由がありません!??
(地図・ピンクのルート)

歴史家も、都合のいい解釈ばかりせんと、しっかり現地調査して貰いたい物です。。。

2019/03/21 編集

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明智光秀展!

京都府・亀岡市にて、亀山城築城400年記念として!
亀岡市文化資料館にて、「時は今よみがえる!光秀の実像」展
が開催されていて!午後から見に行って来ました~!

小さい館内には、明智光秀の書状や資料が展示されていて普段見られない!
物が沢山展示されていました~!

特に良かった物が!岸和田は、本徳寺に伝わる!
明智光秀画像!(4/29~5/5・6/4~6/6のみ本物!) 

そして!福知山は御霊神社に伝わる!明智家中軍法と木像!

桐野作人著「だれが信長を殺したのか」にも紹介されていた!
織田信孝が丹波国人に対して、四国征伐に参加するようにお触れを出した書状。

あとは、明智軍記・本能寺の出土品・波多野秀治画像と木像
・周山城絵図・四王天政孝具足・伝光秀所用の朱漆塗半頬など・・。
期間は、4月29日から6月6日までです~!(入場料は大人360円)

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427年目の真実

先週から、仕事が動きだしたが、(下請け会社の為、他社での出稼ぎ作業。)
キャンセルが無い限り6月末までは?フル稼働生産・・・。
チョット極端なんだよな・・・。(--;)あ~しんどいなぁ・・・。

処で、先週の日曜日、以前から気に成って探していた本を見つける事が出来た。
また!この本もくだらない本かも?と思っていたので、まずは!
見てから購入と決めていたので、取り寄せせずに運?まかせにしていました。

駅前の本屋で、私に買ってくれと言わんばかりに眼下飛び込み
、しかも一冊だけ無造作に放置されていたので・・?
手にとってチョット立ち読み・・・悩んだあげく、これも何かの縁と思い、1600円で購入・・・。

その本は、明智光秀の子孫で、明智憲三郎さんと言う人が書いた本で、
題名が「本能寺の変・427年目の真実」という本です。
筆者は、大量の書物(江戸初期までの日記や記録)を洗い出し、
明智光秀の足取りを調べ直したそうだ。
その記録から今まで語られて来た、光秀・秀吉・家康の行動が、
嘘で塗り替えられていた事が、解かったと言う物です。

実際この本を読んで、少し疑問が有った処が、何と無く溶けた様な気がする。
怨恨説・黒幕説、支持者には不満かもしれないが、
各記録・資料を、一冊にまとめた物なので、
私的には、御薦めかなぁ・・・。

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山陰古道

亀岡の王子~老の坂間には、国道9号線の脇に、山陰古道が残っています。

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道は整備されて、農道として使われています。

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戦国時代にタイムスリップした様な場所が僅かに残っています。


処で、明智軍が西国に向けて京へ向ったと言う話がありますが、
西国へは、現在の国道372号線を、
亀岡~湯の花~篠山~姫路方面に抜ける方が早い
(現に阪神大震災の時にもバイパス道として使われました。)

又は、池田街道を使えば摂津衆(中川清秀・高山右近・池田恒興)と
合流し西国へ向うはず・・・。


6月1日の夜に亀山をでて、軍隊を3隊に分け京へ行へ向け出て、
老の坂を越えたと言う説がありますが、とある某サイトには、1万3千の軍勢が、
狭い1街道を進むと何十キロの蟻の行列となり、
何十時間も掛かるので怪しまれ不自然とのこと。

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明智越(保津~鳴滝~嵯峨野方面へ)
唐櫃越(馬堀~松尾方面へ)
老ノ坂(馬堀~桂方面へ)進軍したのでは?
と言う事だが・・・。

何故?西国街道入り口の東寺付近で~!
農民を切り捨てる??のか?
納得のいく見解が未だに無いのは、如何して!!


前日の5月29日は、豪雨だったそうで、
6月1日の深夜は朔月と言う事もあり、大回り進軍しは、難かったのではないか??

2019/03/21編集

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