時めく蒸機の風

蒸機の撮影(N蒸機の加工)が、メインですが、 明智光秀ネタも書いてます・・・。

埴生城

ぼちぼち御朱印巡り行きたいなぁ。

埴生城(その2)

昨年秋から、埴生城跡の整備が、始まったとかで、チョット立ち寄ってみました。
今回は、大手ルート(オレンジ矢印)ではなく、最短ルート(赤矢印)を攻略。

埴生城a2

公民館脇の路地を行き、橋を渡ると、ロープで仕切られた区間が有りました。

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そのロープを辿って行くと広い場所に出ました。

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なるほど・・・。ここが屋敷跡では無いか?と言われている処の様です。

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更に、奥へ行くと、ジグザグ山道が続きます・・・。(^^;)
残り、数メーターロープが無かったので、ちょっと迷ってしまった・・・。

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何とか到着~! 南大谷方面が見渡せました!

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更に!南八田方面(南八田城跡)が見渡せます~!

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前回撮った、天守台の石垣。(前回の埴生城散策記事


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森林の伐採で、西側の斜面が姿を現していたので、そちらを散策。
大きな石垣が残っていました。

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丸裸になった地形を見ると、石垣を撤去した後の、天守部分の基礎盛が、
そのまま残った感じに、見えました。

大手ルートをより物足りない感じはするが・・・。今後の整備が楽しみですね!

野々口西蔵坊豪渕

明智光秀ゆかりの地を、巡った帰り道。
元・檀家寺でもある、南丹市園部町埴生にある、最福寺に立ち寄りました。
何故かと言うと、江戸時代、船井ごおり三十三ヵ所観音の23番だったので、
御朱印を頂きたいと、お邪魔しました。(^^;)

最福寺a


突然の訪問にも拘らず、御朱印を頂く事が出来ました。(^^;)
更に、御持て成しをして頂き、有難う御座いました。
話が弾んで、いろいろ話していたら、野々口西蔵坊の御位牌も見ていく?
となって!ビックリ~!

西蔵坊
図説・園部の歴史より(伝西蔵坊画像)

ワザワザ祭壇の奥にある御位牌を見せて頂きました。


西蔵坊a

表には、「圓寂 権大僧都豪渕 法印 尊霊」 と彫られていて
しっかりと 野々口西蔵坊豪渕の名が有りました~!

権大僧都と言う僧侶の地位だったようですが・・・。
調べたら、曹洞宗には、無い位の様です・・・?
と言う事は、我が一族は、江戸時代(小出氏と同じく)改宗したんか・・・?
亀岡市の金輪寺と楽音寺は、本山修験宗(天台派)みたいなので・・・。
もしかしたら?そうだったかもしれない・・・。

更に裏側には、

西蔵坊c

文禄5年(西暦1596年)6月15日と成っており、没年月日が判明しました~!

最福寺

実家の親に、報告すると、御寺の祭壇に有った事は、知っていた様だ・・・。
もう少し!早く言って欲しかったなぁ・・・。

南八田(みなみはった)の戦い

南丹市の園部史によると、記録は無いが、明智光秀の軍と、波多野秀治の軍勢が、
八田川を挟んで、激戦と成り、川が真赤に染まったと言う伝説が載っていました。
その為、南八田周辺には、五輪塔が、多く残って居たそうです。

南八田 のコピー

チョット暇つぶしに、京都最西端、野々口西蔵坊の埴生城(本目城)から、
南八田方向を眺めて見た。
(向かって、右側の山向こうか、小畠氏の穴人で、矢印が戦闘地)
篠山街道が、一直線に見えますね。
波多野の軍勢を見張るには、良さそうな位置である。

軍記物では、西蔵坊は、波多野側の兵と書かれているが、この地形から見ても!
明智側の兵で、前線基地を任されていた、地位の人物では?無いかと思う。

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埴生城

鉄道趣味の次に、興味があるのが!日本史で!戦国時代です。
出生地が、明智光秀が築いた亀山城がある亀岡市で育った事と、
親の先祖が武将だった?と言う?言い伝えから来ています。

ある日、Web散策で親の里にある、室町時代中期に築いたと言われる
城跡を散策した写真を発見!それを見てから!絶対!登ってみたい!
と思い始め、蝮が出ない、この季節にチャレンジしてみました。

登頂口は、家の菩提寺で、園部にある最福寺の裏山です。

no title



このお寺の門は、お城の移築門と言われているようですが、
南丹市総合ガイドのHPによると、
平成7年に改修工事をしたさいに、1701年(元禄14年)に再建された門だと判明!

さて、城跡への道筋をかいた記事を、参考にウロウロしてみたが、
やはり!大手口から上って見たいと!川沿い散策。

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西側の小川が、外堀の役目を果たしているのか?
川を渡った、奥の森に、虎口らしき場所を発見!

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入り口に、近づいてみると、大小の石が山頂に向って、ひき詰めていた。

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3

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途中、行く手を阻む柵が出現、柵の向う側には大きな巨石が。(網の隙間から撮影)

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仕方ないので、こんどは柵に沿って登頂開始。
数分後、松林を伐採した、個所に辿り付き、尾根の先端に到着。

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大きな石が数個転がっていた!さらに北側へ足を進めると、

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Webで見た!掘割が出現。左斜面には、苔の生えた石垣が見える。

この斜面をさらに北へ進むと、櫓跡と思われる石垣群がありました。

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別角度から、

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他に石垣群が無いか、数分散策して見ましたが、大きな石が点在はしていましたが、

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先ほどの様な、石垣群は見当たりませんでした。


この城の南側を登って行くと、半国山と言う山が有り、さらに東側の尾根には、神尾山が在り、
いざと言う時には、神尾山城に落ち延びる事も可能かも・・・。


埴生城は、神尾山城の支配城と言う事ですが、
北を正面にした二郭から成る簡単な山城で、
西側には館跡と思われる平坦地が南北に伸びており、
さらにその脇には谷川が流れており外堀の役目をしていたとか。

築城者は、野々口左衛門尉親永だそうです。
Webで系図を調べた処、
五代目・親広
六代目・義盛
 (義盛は入り婿で、足利義政に仕えていて、左衛門尉に)
七代目・親永
八代目・清親(西蔵坊と呼ばれ明智光秀の家臣団に属していた。)

*八代目清親は、野々口西蔵坊の名で知られ、
明智光秀の八上城攻めで、薗部城の荒木氏と共に、
和睦の使者となり波多野兄弟を神尾山城に呼び出した事で知られており、
新説でも本能寺の変にも名が出て来ている。

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