明智光秀と史跡
ネットで調べたら、
山崎の合戦後、坂本へ落ち延びるさい、隠れてたと言う伝説が有るそうです。
場所は、宇治駅から、南へ歩いて、25分・・・。
途中、坂道がありチョット疲れました・・・。
神明神社の鳥居の横の由緒書きに、伝説が書かれていました。
神事以外は、静かな神社?誰も居ませんでした・・・。
ここが、明智光秀が隠れたと言う、井戸の様です。
駅から、ここへ来るルート上にあった、専修院に戻ります。
こちらの御寺は、特に案内板(由緒書)も有りませんでしたので・・・。
外からの撮影のみで、帰宅。
新聞記事に寄ると、この寺の裏に、竹藪があり、明智光秀が隠れていたようだ。
(源平の落ち武者と言う説もあるとか?)
勝竜寺城→巨椋池→神明神社→専修院→明智藪(勧修寺)
と言う感じに敗走したのだろうか・・・?
出張の休暇日、三岐鉄道に有る!
いなべ市の珍しい橋を、撮影に行きました~!
そこには、大正時代に作られたと言う貴重な!
アーチ橋(めがね橋)が有りました。
明智拱橋と言います。
(- -;)ネタ無いからと言ってこじ付けみたいですが・・・。
何やら明智の残党が川の上流の集落に住んでいたから?
と言うネタがネットに乗っていたので暇つぶしに出掛けたのでした・・・・。
出張先で、暇だったので・・・。
あれこれ調べたら、三重出身の江戸川乱歩に辿り着いた。。。
そ~なんです!明智小五郎の!江戸川乱歩!
江戸川乱歩の御祖父さんは、津藩・藤堂家の家臣に仕えていたそうなぁ!
そう!丹波亀山城を改築した、あの藤堂高虎の家系です。
高虎は、チョットだけですが、織田信澄にも仕えていたらしい。
織田信澄の子、昌澄(織田信澄の子=明智光秀の孫)は。
高虎の家臣だった事もあるそうなぁ。
大坂夏の陣では、大坂方でしたが、藤堂高虎のとりなしで、
家康から助命処分になっています。
さらに秀忠時代に旗本となり、近江甲賀付近を貰ったそうなぁ。
ん~ん、明智ミステリー・・・・。
明智光秀公の霊に導かれたのか?否や?
私の住む近くには、面白い伝説が有ります。
場所は、物集女街道と旧山陰道の交差点を西に少し入った所を、
流れる小さな用水路で、桂川の松尾から物集女街道沿いを流れている
小畠川(明智川)です。
其処には、こんな案内板がありました。
天正10年6月2日に、明智光秀が、この地で目撃されている
話が正しければ、こんな仮説が出来ます。
天正10年6月2日、斉藤利三率いる3千(惟任退治記では、大目にして!1万3千)
の兵が丹波(西山)街道を南下、長岡調子付近から、反転西国街道を北上、
東寺付近で農民を切り捨てて、本能寺を襲撃。
革島荘に本陣を置いていた、明智光秀は早朝、京都の異変に気付き樫原の高台へ!
赤矢印付近が、本能寺の方角
googleマップでも真正面に、見える~!
目を疑った、光秀が思わず真意を確かめるために、
近くに居た、百姓に声を掛け、本能寺だと解ると!
直ちに軍勢を本能寺へ向わせたが、
時すでに遅し、二条御所が囲まれていた・・・。と言う話が成り立ちます。
この日は、夕刻まで、光秀の目撃情報が記載されていないので・・・。
事の真意は?定かでは有りません・・・。
kのの
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