以前、山中幸盛と野々口丹波の話を書きましたが。。。
この話は、何時頃の書物に書かれているのか?
と気になってWebで、見て見ると。
「名将言行禄」と言う書で、幕末頃に岡谷繁実が、15年も掛けて、まとめた書だそうだ。
史実か如何か解らないエピソード集に、我!先祖が!
明智光秀の家臣として山中幸盛と対話したと言う話を記載するとは!驚きでは無いですか?
何故かと言うと、関東・館林藩の岡谷氏が、
丹波に野々口姓の土豪が住んでいるさえ解らないんですよ!
地元でも光秀公の家臣と言う話しさえ出てこなかったんですからね。
かの有名な、綿考輯録(細川家記)には、
野々口西蔵坊は、波多野氏の家臣で、光秀に金で買収されて、
八上の波多野氏を誘い出した?様な書き方をされているんですからね・・。
チョット不愉快ですが、江戸時代に、
光秀の家臣と言う事を伏せる意味では、都合のいい話ですが・・・。
また!もう一人!山中幸盛談には、
野々口彦助と言う人物も出て来ます。
この話は、彦助に「合戦の前には、必ず目が見えなくなるものだ心得ておかれよ」
と言ったそうで、後日、朝霧の中の戦場で、幸盛の話を思い出した。
「ここで戦況が見えないのは、私が気後れしているからだ」と気を沈める為に、
眼を閉じ、ゆっくりと眼を開けると、敵の姿がクッキリと判別出来!
見事!功名を上げる事が出来たそうだ。
これは、「常山紀談」に記載されているとかで、
江戸時代中期・岡山藩の湯浅常山が、まとめた書だそうです。
余談ですが、丹波の濃霧は、視界が本当に悪くて、見難いですよ~!
小学生時代の体験談ですが、視界5m位(電柱2本目が見えん!)
もしも!他国の武将なら弓矢で一撃されてもおかしくないという事を考えた事も・・・。
この彦助と言う人物は、実際に光秀の書状に出て来ていますので、実在の人物です。
光秀の書状の中では、銘字無しの彦助殿と書かれているので、
わりと身近な存在だったのでは、と考えられます。
また、西蔵坊は西蔵坊と書かれていますので、彦助が野々口姓となれば、
同じ家臣の西蔵坊と書き分ける為に、略した可能性がありますね!
この書も、史実か?如何か?解らないにも関わらず、
光秀の家臣内に、野々口姓の武将が居たと言うのは!何故解ったのか?不思議ですね。
久しぶりの光秀ネタでした・・・。